輸血の歴史から紐解く 献血が無償である理由

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献血をしてもお金がもらえない理由

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ケガや病気で大量に出血してしまった患者さんや、白血病などの病気でからだの中で十分に血液をつくれない患者さんは、生命を維持するための血液が不足してしまう危険があるため、血液を補充する治療を行います。これが輸血です。

iPS細胞などによる人工血液の研究も進められていますが、現状では血液を人工的につくることはできません。現在日本で輸血に使用されている血液製剤は、献血によって提供された血液からつくられています。

献血をするとお菓子や飲みものがもらえます。アニメやアイドルのポスターがもらえるキャンペーンなどもやっていますね。

ですが献血をしても、お金をもらうことはできません。献血は無償のボランティアなのです。

しかし現在、少子高齢化による献血者の減少が課題になっています。輸血を受ける患者さんの多くは50歳以上であるのに対し、献血者の多くは50歳以下です。

また血液製剤の多くは長期保存ができません。赤血球は献血から28日間、血小板は4日しかもちません。

そのため一度献血してもらえば終わりではなく、絶え間ない献血が必要です。駅前などで「献血にご協力ください」、「〇型の血液が不足しています」といった呼びかけをしているのを見たことがあるかたも多いと思います。

「そんなに血液が足りないなら、ボランティアじゃなくて血液を提供した人にお金を支払うようにすれば、血液を提供したい人が増えるのでは?」と思うかたもいるでしょう。

お金を支払って血液を提供してもらうことを「売血」といいます。たしかに売血のほうが血液はたくさん集まるのかもしれません。

実は日本では、過去に売血が行われていました。売血が廃止され、献血に切り替わるまでには過去にさまざまな出来事があったのです。

今回は日本の輸血の歴史を紐解きながら、献血が無償でなければならない理由をお話しします。

輸血のはじまり

輸血のはじまり

日本で輸血が行われはじめたのは1919年(大正8年)のことです。当時は輸血が必要な患者さんの隣に血液を提供する人を寝かせて、注射器でとった血液をそのまますぐに患者さんに輸血する「まくら元輸血」という方法をとっていました。

今では考えられない、とんでもない方法ですね…。

1930年(昭和5年)、当時の首相だった浜口雄幸氏がピストルで撃たれるという事件が起きました。このとき浜口首相が輸血を受けて一命をとりとめたことがきっかけで、輸血が全国的に広がっていったとされています。

血液銀行の設立

しかしこのまくら元輸血は、からだから抜いたばかりの血液を検査もせずに輸血するため、安全性に問題があったのです。

そして1948年(昭和23年)、東大病院分院産婦人科で子宮筋腫の手術の際に輸血を受けた女性が、輸血によって梅毒に感染してしまうという事故が起きます。

この女性に血液を提供した男性は梅毒の陰性証明書を持っていましたが、証明書が発行されたあとで梅毒に感染。血液を提供した際に十分な問診や検査がされないまま輸血されてしまったということでした。

この事故を受けて1952年(昭和27年)、安全な血液製剤の製造や供給を行う「血液銀行」として、日本赤十字社東京血液銀行業務所(現在の赤十字血液センター)が設立されました。

売血が主流の時代

売血

日本赤十字社は当時からボランティアによる献血を呼びかけていたのですが、同時期に設立された民間の血液銀行は売血を行っていました。

同じ血液を提供するなら、ボランティアの献血よりお金がもらえる売血のほうがいいですよね。そのため当時は売血のほうが多く、献血者は激減してしまいました。

さらに売血を行う人の中には、経済的に厳しい立場の人が多くいたのです。こうした人たちは、生活費を得るために自分の血液を売っていました。

血液を提供できる年齢や回数の規定はありましたが、売血をする人の中にはそれらを偽ってまで血液を売る人も現れました。当時の記録によれば、なんと1か月に70回も売血した人がいるそうです。

こうした人たちの血液は、赤血球の量が回復する前にまた売血してしまうために、赤血球が少なく血漿(けっしょう)という血液の液体成分が目立つようになります。そこまで売血すればその人自身の健康にも影響しますし、その血液は輸血してもあまり効果がありません。

また肝炎ウイルスなどは血液を介して感染するため、感染者の血液を輸血されると輸血をされた人も感染してしまいます。しかし売血による血液製剤の品質管理はずさんであり、感染症検査もほとんど行われていませんでした。

そのため輸血を受けたことで肝炎ウイルスなどに感染するリスクが、今とは比べものにならないほど高かったのです。

ライシャワー事件

血漿は黄色をしているので、売血をくり返す人たちの血漿が目立つ血液は「黄色い血」と呼ばれて社会問題になっていました。

また輸血は他人の血液をからだに入れるので、「一番身近な臓器移植」ともいわれています。自分のからだ、命の一部である血液を売買するのは臓器売買や人身売買と同じではないか、という社会的な批判も高まりました。

そして1964年(昭和39年)、当時の駐日大使であったライシャワー氏が暴漢に刺されて重症を負うという事件が起こります。

ライシャワー氏は病院へ運ばれ一命はとりとめましたが、このときに受けた輸血が原因で輸血後肝炎を発症してしまいました。ライシャワー氏は1990年(平成2年)に79歳で亡くなるまで、肝炎と戦い続けました。

ライシャワー氏は数々の功績がある外交官であり、事件のあとも「輸血を受けて、日本と血のつながりができた」と笑顔で語るほどの親日家でした。そんなライシャワー氏を輸血後肝炎にしてしまったこの事件は、当時の首相がアメリカ国民へ謝罪するほど、日本国家の恥といえる出来事だったのです。

この事件をきっかけに売血廃止の声が高まり、輸血用の血液は日本赤十字社のもと、献血により確保することが閣議決定されました。

売血の廃止

売血の廃止

「献血をしておけば、自分や家族が輸血が必要になったときに優先的に輸血を受けられる」という話を聞いたことはありませんか?

実はこの制度、売血が廃止されたあとも血液を安定的に確保するために、過去に実際に行われていました。輸血が必要な誰かのために献血するというより、健康なときに自分の血液を預けておいて、必要になったら払い戻しをするという考えかたです。

しかしこの制度では、「輸血を受けるには献血しなければ」と精神的な負担を抱えることになります。また「必要な血液は献血して預けてあるから大丈夫」と、献血をしなくなるケースもありました。そのためこの血液を預けるという制度も1974年(昭和49年)に廃止されることになります。

その後も血漿からつくられるアルブミン製剤や免疫グロブリン製剤、血液凝固因子製剤などの血漿分画製剤には、製薬会社による売血が使われていましたが、この売血も1990年(平成2年)に廃止されます。これにより日本ではすべての売血が廃止されました。

売血が完全に廃止されたのは平成に入ってからと、実はそんなに昔のことではないのが意外ですよね。

安全な輸血のための検査の導入

輸血前の検査

ライシャワー事件(1964年)当時は、輸血を受けた患者さんのうち、輸血によって肝炎を発症してしまう人の割合が50%を超えていたそうです。1980年代に入っても、輸血が原因で毎年17万人のかたがB型肝炎を、4,000人のかたがC型肝炎を発症していました。

そこで1972年(昭和47年)にはB型肝炎ウイルスの検査であるHBs抗原検査が、1989(平成元年)年にはC型肝炎ウイルスの検査であるHCV抗体検査が導入され、献血された血液を事前に検査することで、肝炎を発症するかたは激減しました。

また1999年(平成11年)からは、B型肝炎ウイルス、C型肝炎ウイルス、エイズウイルス(HIV)に対して核酸増幅検査(NAT)を導入しています。

核酸増幅検査とは、ウイルスのDNAを約1億倍に増やしてウイルスを検出する検査です。ウイルスに感染した直後はウイルス量が少ないため検査で検出できない期間(ウインドウピリオド)があるのですが、核酸増幅検査は抗原検査や抗体検査に比べてウインドウピリオドを短くすることができます。

さらに導入当初は献血者数十人ぶんをまとめて検査していましたが、2014年(平成26年)からは献血者1人ごとに検査を行う方式に変更しています。

現在でも輸血による感染症を完全にゼロにすることは難しいものの、今では年間100万人以上の患者さんが輸血を受けている中で、輸血によって感染症になるかたは年間10人前後まで減少しました。

おわりに

現在、アメリカを除く先進国のほとんどは、日本と同じく売血を法律で禁止しています。今でも中国では、かつての日本のように貧しい人たちが売血を行い、輸血による感染症が問題になっているそうです。

確かに売血のほうが、血液を提供する人は増えるのかもしれません。しかし売血にすれば、いくら年齢や回数を偽れないように本人確認のシステムを構築しても、感染症検査の精度を上げても、無理をしてまで血液を売ろうとする人は確実に増えるでしょう。そうなれば輸血の安全性は揺らいでしまいます。

輸血を受ける人と血液を提供する人、どちらの健康も守るために、献血は無償のボランティアとなっているのです。

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